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野口英世の一生について簡単に教えてください


2007-01-12 14:16の質問
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回答(4)

3.

2007-01-12 17:16:41ベスト
会津若松市のホームページの引用です。
「世界的に有名な医学者、野口英世(幼名清作)博士は1876年11月9日福島県耶麻郡翁島村(現在の猪苗代町)に生まれました。
 清作は1歳半のころ、いろりに落ちて左手に大火傷を負いました。後にその左手を、手術はしましたが、完治することはありませんでした。しかし清作は、その時に医学の素晴らしさを知り、医者への道を志すことになりました。その結果、野口英世博士は医学の道へ進み、世界中の人々の命を救うこととなりました。」

医者になってからの活動は、会津若松市のホームページによると、大きな3つの研究があります。
☆蛇毒の研究
「フィラデルフィア(1900-1903年)
恩師である小林先生や血脇先生の援助を受け、アメリカのフィラデルフィアにある、ペンシルベニア大学医学部へ行くことになりました。そこで、蛇毒の研究をしていました」

☆梅毒スピロヘーターの研究(1905年~)
「ドイツ・ベルリンなどで研究
ロックフェラー研究所で梅毒のスピロヘータの研究に成功し、ヨーロパ各地の講演旅行をする。」
この頃、メアリーと結婚をしました。

☆黄熱病(1918年~)
「エクアドル・グアヤキル(1918~)
黄熱病の研究のため、エクアドルのグアヤキルに出張。その後、野口英世は黄熱病のさらなる研究のために、南米各地を回りました。
⇒ペルー、ブラジル 、メキシコ
野口英世はここでも黄熱病の研究を行ないまた。」
「 南米ガーナ・アクラで野口英世が作った薬では、アフリカの黄熱病は治らない、という連絡を受け、アフリカへ出張。しかし、そこで野口英世は逆に黄熱病にかかり、51歳の偉大な生涯を閉じた。」

若い頃に触れておきます。
「東京に出た野口清作(野口英世は)は、会津若松の会陽医院で縁を得た 高山歯科医学院(現在、東京歯科大学)の血脇守之助先生の元で医学を学び、見事、わずか20歳という若さで医師免許を取得しました。その後、野口清作は、当時医学会で世界的に有名であった北里柴三郎を所長とする伝染病研究所の助手となった。
 野口英世は、伝染病研究所内で、来日中に研究所に訪れたシモン・フレキスナー博士と知合ったり、横浜の海港検疫所に派遣中にペスト患者を発見、隔離するなどの功績により、清国(現在の中国)へ行くことになったりと、徐々に世界の野口英世への足掛かりを作っていった。 」

1.

2007-01-12 14:38:30

2.

2007-01-12 16:02:57
東北人ですよねぇ~~。
手が不住ですよねぇ~~。
後は~~~。
小学校の時に、「記念館」に修学旅行で行った。

今行くと、また新たにビックリする。

4.

2007-01-12 21:44:55ベター
皆さんは素晴らしい実績を書かれています。
確かにその通りです。でも 裏から見ると

借金踏み倒しの名人でした。
映画(落日)で表現した通りです。
ラストシーンは 淋しかったですね。
自信度 : 自信あり 回答レベル : 回答

ありがとうございます。
とてもすばらしい回答でした。
英世には こんな一面もあったのですね。まったく分かりませんでした。

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コメント(1)

#1.  bowlby
2007-01-13 09:51:21

bestありがとうございます。

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