抗議行動の正当性について(捕鯨船・聖火リレー)
日本の捕鯨船を、シーシェパードという人たちが、暴力的に妨害する事件が起きました。また、チベット問題に対する中国政府の強圧的態度に抗議して、世界各国で北京オリンピック聖火リレーを妨害する活動が起こっています。
僕は、鯨の肉が嫌いだし、鯨はすごいので、そっとしておいてあげればいい、と感じます。それに一部日本人のヒステリックな反発に生理的な嫌悪感を抱くこともあります。
しかし、シーシェパードの行為は海賊と一緒、みたいな発言を自民党の有力議員がTVで発言していますし、暴力はいけない、と思いました。
そのあと、チベット暴動を中国政府が、かなり卑劣なやり方で鎮圧しているようにみえます。平和なデモ活動に中国が過剰反応したために騒ぎが大きくなった可能性。情報統制し、明らかに歪んだ情報を世界に発信している。中国当局がチベット僧の服装をして暴れ、チベットのイメージを損なう工作をしているという複数の情報があること。など、中国政府のやり方には、どうしても看過しがたいものがあります。
だから僕は、聖火リレー妨害についても、応援したい気持ちです。
しかし、日本の捕鯨船を妨害するものは非難し、聖火リレー妨害を応援するのは、けっきょくは同じような暴力行為を、自分の利害の違いで一方を非難し一方を正当化しているだけなのか、と思いました。
それは、明らかに卑劣な態度と言えるでしょう。僕は卑劣なのか?
それとも、両者には、片方は正当化でき、片方は非難すべき違いがあるのでしょうか?
たとえば、体制を暴力的に攻撃するのも、ある時はテロリズム、クーデターとして悪く言われたり、ある時は圧制からの解放と正当化されることもあるでしょう。
だから、日本の捕鯨船への妨害は悪いことで、聖火リレーの妨害は正当化される、という理屈を捜してみたい誘惑にもかられます。たとえば、チベット人への弾圧を傍観していることのほうが罪ではないか?とか。あるいは、情報社会の中で情報統制するというのは、我々の正当な判断する権利を奪われることに対する報復とか。
皆様はどう思いますか?
僕は、これらについて混乱しています。自分の頭の中をスッキリさせるため、他の人たちはどんな判断をしているのか、参考にさせていただきたいと思います。
回答(5)
1.

軍隊をもってる国 持ってない国 の違い。
何でも金になれば何処えでも出て行く国。
金で解決しようとする国 外交は 二の次。
今でも 国連の敵国に Japanと書いてあっても 国連えのお金はアメリカに次ぎ2番目供出国でありながら 敵国を外して貰う努力をしない外交の
下手さ。
2.

大多数の西洋人が言っている事は、、捕鯨は悪!!中国も悪!!ですよ・・(^^;
(極論ですが・・)
オイラは捕鯨自体は悪くない!!中国は・・・・だが、、聖火リレーの妨害行為は悪!!
だと考えてます。。m(_ _)m
3.

僕は、鯨の肉が好きだし、鯨はすごいので、もっと日本人の食卓にあげればいい、と感じます。
この言葉に対して、あなたは反発しますか、あるいは賛同しますか。その理由は?
人それぞれ異なる意見があって、利害も異なります。だから支持する意見も変わってくるわけです。
みんな一緒でなくても良いのです。ただし日本は法治国家です。法を犯せば国家権力によって罰せられます。
それを「独裁」だの「圧政」だのと勝手な理屈をつけて反発する連中は、自分たちで独立国家を興す真似事でもいいからやってみたらいい。必ず「法」というものが必要なことに気づくでしょう。
4.

チベット自治区における中国政府の行動は責められてしかるべきかと思いますが内政干渉にもあたるところなのであまり強くは主張しにくいことも事実です。
上記2件に対する一連の行動に関しては「悪い」
としかいいようがありません。
反対する手段としてオリンピックを利用したわけですが 全く関係のない話です。オリンピック開催に反対しているのならまだわからなくはないでですが政治的なプロパガンダにスポーツを利用したわけです。
中国政府はチベットだけでなく新疆でも同様の行動をとっていますがこれらの人権無視については別の手段で抗議すべきでしょう。
長野では理性的に行動してほしいものです。
どうもありがとうございました。
僕の感じとしては、国際社会には、十分な秩序がない状態で、その足りないところは、国際社会のメンバーが果敢に作っていくべきものではないかと思います。それが歴史となって、前例となって新しい時代の新しい規則となっていくんじゃないかと思います。どうも日本には、国際社会の中で、そういう新しい価値観を発信するという発想自体が薄いような気がして、僕としてはそこが不満です。
5.

善悪というものは
無くて、
善悪という概念は
結局は人間の都合によるものだと考えると
この世のあらゆる矛盾は
自然であるように僕は思えます。
善悪というのは、めざす「目的」があって初めて
存在し始めると思います。
善悪は
結局は
その「目的」の達成にとって
プラスであるか否か
ではないでしょうか?
そうであるとすると
それぞれ「目的」が違うとなれば
それぞれの正義は違うのは当然。
これらの問題も
立場によってそれぞれに「目的」が違うから
それぞれの正義がぶつかり合っていると
映ります。
目的は
“目先の快感”か
“金”か
“権力”か
“生きること”か
“人類の繁栄”か
“生物全体の繁栄”か
・・・
の違い
例えば
どちらかが折れたり
あるいは
一つの絶対的な目的
を共有するでもない限りは
対立は発生し続けるのは自然だと思います。
ご回答ありがとうございます。
僕としては、善悪という価値観を作るという目的も、善悪のものさしで計られるものだと思います。
やはり、カネ目的、自分のみの安逸が目的だというよりは、世の中のため、博愛のため、という目的のほうが、高い価値があるように思います。
コメント(3)
皆様ご回答ありがとうございました。僕としては、こんなふうに考えてゆきたいと思っています。まず、自分の良心に従って首尾一貫性があること。英語ではintegrityという言葉がありますが、それにあたる日本語は特にないですが、僕がこだわる第一はこれです。それから、特に国際法では、法の解釈が常に流動していると思います。コソボ問題でNATO軍がセルビアを攻撃したようなものは、たぶん彼らなりのintegrityがもとにあって、それを積極的に推し進めると、あのようなことになるのではないか、と思います。チベット問題も、ただ内省干渉だから咎めにくい、という態度でいいのか?あれはひょっとしたらコソボ問題(国内のマイノリティの虐待)と同じで、外国が軍事行動を起こしていい問題ではないか?と思ったりもします。
そのためには、integrityの核は自分の場合は何だろうか?と考えなくてはいけないのでしょう。
betterありがとうございます。
この問題はつきつめると民族・宗教対立や戦争・武力行使の是否といった深いところまでいってしまいますね。
日本では中国と違い他民族に占領されたり改宗をせまられたりという歴史がないせいか?意識がたかまりにくいですね。ヨーロッパにしろアジアにしろ大陸の諸国にはセンシティブなテーマです。
民族・人権保護のための軍事介入や武力行使は侵略のためのexcuseとしてよく利用された過去があるので、特にアジアにおいて日本がこのような行動がとりにくい・誤解を受けやすい・逆に日本非難の口実にされやすいです。
わたしにとってのintegrityの核はなにか?わたしも考えてみます。
BETTERありがとうございます
自分で回答したようには考えて
もいるのですが
実際
普段の話となると
僕もplausibleさんの
おっしゃったようなものさしで
無意識に生きようとしているように思いますね。
出来ているかどうかは別として・・
多分
多くの人もそうなのでしょう
でも
僕にはとても理解できない
価値観をもっていて、僕らから見たら
悪人のような存在も
実はきっと貴重なんだろうなとも思います
なぜなら
失敗しないと
失敗から学ぶことも出来ないものは
たくさんあって
彼が自分の代わりにその失敗を背負って
くれているとも
考えられるからです。
だからこそ
彼が一度おかした
失敗に
僕らは
彼にただ罰を与えるのではなく
むしろ学ぶという役割を
担わないといけないと感じますね。
考えさせらる質問有難うございます。



