「死ぬのはいつも他人」(デュシャン)という言葉があります。
要するに、私は死なないし、死にたくもないという潜在的な願いですね。一言お願いします。回答(2)
1.

私は若い時に母を亡くしました、享年43歳だったので人生の空しさに相当のショックがありました。私はそれまで考えた事も無かった人間の死について考えるようになりました。生まれて来たからには死ぬ、それも自分では選べない・・・やって来る死は明日かも知れない、いや5分後かも知れない事に気づいたのです。
では、いつ訪れるかも知れない自分の死に対して、どう生きたら良いのか?と云う問いになりました。
考え抜いて辿り着いた答えは「いつ自分の死が訪れてもジタバタ後悔しないように、与えられた時間を精一杯生きる事だ」と云う事になりました。
母の死が教えてくれた「死に対する私の認識」が明確になり、私の人生観は一変しました。辛い事も苦しい事も、全てはいつ訪れるか分からない自分の死を意識した瞬間から死に至るまでの満足感の為だと思うと全て楽しみに変わったのです。
2.

D'ailleurs, c'est toujours les autres qui meurent.
「されど死ぬのはいつも他人」
「されど」が頭についているので、そういう解釈はいかがなものかな?
Duchampはとびきり変わった人間だったようだから、明確な墓碑銘の意図
を後世の我々が知るのは難しい。
以上一言。
コメント(7)
PS
人間若い時は、死の事は関係無いと考えもしないものです。それが若さと云うものでしょうが結局生き方を見い出せないで、惰性で人生を無作為に過ごしてしまう事になりかねません。
そして、歳をとって老人になると死の事が身近な問題となり考えるのですが「その時は既に遅し」なのです。尚且つそうなった時でも、自分はまだ死なないと考えるのが人間の愚かな点でしょう。
母の若くしての死は残念な事でしたが無駄ではありませんでした。母が長生きしていたら、それなりに幸せだったでしょうが私の人生も悟りの無い別なストリーになっていたでしょう。
おまけに、私の母は若死にだったので瞼を閉じると42歳の時の若くて美しい母のままなのです。良い人程惜しまれて早死にすると云われますが、人間若くして死ぬのも悪く無いと思いながら今迄生きてしまいました。
老人会代表さん。ありがとうございます。
「されど」までは深読み出来ませんでした。
覚えていませんが、たぶん孫引きのせいでしょう。
私の墓に刻むエピタフは「ここに無名の人眠れり」です。
もっとも、最近は自然葬も有りかな、などと考えています。
信長さん。
「若くて美しいままのお母様」、うらやましい悟りですね。
遠く関西に嫁いだ私のマドンナ。脳裏ではまだ二十歳です。
示威持参、トテモ博学なお方ですね。周りでうろうろしていて賢くなろう。
タンポポさん。博学なんてとんでもない。
どこかの老人会代表さんに、また揶揄されてしまいます。
末尾に挙げる、この言葉についてのある詩人の解釈からすると、狭い美術界でいろいろ試みてきたデュシャンは老齢になったときに美術界の反応を嘆きつつ、“Up to now, it has always been the others who died.”(今までは、いつも死ぬのは他人ばかりだった)と結んでいます。
この解釈では、「今まで自分もいろいろ挑戦してきたが、いよいよ自分も死ぬ番だ」という意味にとれます。ご参考まで。
http://www.poemhunter.com/poem/portrait-gallery-d-...
usaさん。PoemHunter.comは奥深そうですね。洞窟に入り込むつもりで、あちこち探険してみようと思います。
「お気に入り」に収めました。



