回答(4)
2.
2009-02-24 23:06:23

桶狭間の戦いで織田軍と今川軍の戦死者は、勝った織田軍が約830人、負けた今川軍が約2500人であったと言われます。本当の戦いは2時間ぐらいであったとのことです。以下に、ちょっとばかりその様子を書きます。
今川義元が約2万5千人の軍勢を率いて駿府を出たのは永禄3年(1560年)5月12日でした。これに対して、信長出陣は5月19日朝方で、わずか6騎で出陣し途中で人数を待ったとのこと。信長一行が熱田で戦勝祈願した時には、軍勢が千人余になっていたそうです。
今川義元の桶狭間への到着は5月19日正午。東海道と大高道の分岐点に広がる海抜65mの緑豊かな丘陵地「おけはざま山」でした。当初、義元本隊の戦勝続きで、今川軍は油断をしたようです。逆に、劣勢を見てとった織田軍が中島砦へ移動した時には兵の数は『信長公記』によると2千以下であったとのこと。午後1時頃、にわか雨が降り出し、信長はこれを機に突撃開始。山上に居た今川本陣めがけ約3000人の兵を率いて真正面から突進し、5月19日午後2時、今川義元を発見。両軍入り乱れての乱戦となったようですが、5月19日午後2時過ぎ、義元の首がはねられたとのこと。信長の家臣服部小平太が槍で義元を刺し、毛利新助が後ろから組み付いて首を取ったと伝えられます。
なお、今川軍の戦死者の数は、『信長公記』によれば約3,000人と記されています。いずれにしても、戦死者は今川側がずっと多かったということです。
今川義元が約2万5千人の軍勢を率いて駿府を出たのは永禄3年(1560年)5月12日でした。これに対して、信長出陣は5月19日朝方で、わずか6騎で出陣し途中で人数を待ったとのこと。信長一行が熱田で戦勝祈願した時には、軍勢が千人余になっていたそうです。
今川義元の桶狭間への到着は5月19日正午。東海道と大高道の分岐点に広がる海抜65mの緑豊かな丘陵地「おけはざま山」でした。当初、義元本隊の戦勝続きで、今川軍は油断をしたようです。逆に、劣勢を見てとった織田軍が中島砦へ移動した時には兵の数は『信長公記』によると2千以下であったとのこと。午後1時頃、にわか雨が降り出し、信長はこれを機に突撃開始。山上に居た今川本陣めがけ約3000人の兵を率いて真正面から突進し、5月19日午後2時、今川義元を発見。両軍入り乱れての乱戦となったようですが、5月19日午後2時過ぎ、義元の首がはねられたとのこと。信長の家臣服部小平太が槍で義元を刺し、毛利新助が後ろから組み付いて首を取ったと伝えられます。
なお、今川軍の戦死者の数は、『信長公記』によれば約3,000人と記されています。いずれにしても、戦死者は今川側がずっと多かったということです。
回答レベル : 回答
詳しく説明してくださってありがとうございます。
1.
2009-02-24 22:59:28

兵数においては
今川が2500~4000。
織田はよく分りませんでしたが、陥落した丸根・鷲津砦には300ずつ配置されていたようです。ただ義元を討ち取った後に抵抗していた城を攻略していることからそこまで多くはないと思われます。
なので今川の方が多いかと。
今川が2500~4000。
織田はよく分りませんでしたが、陥落した丸根・鷲津砦には300ずつ配置されていたようです。ただ義元を討ち取った後に抵抗していた城を攻略していることからそこまで多くはないと思われます。
なので今川の方が多いかと。
自信度 : 自信あり 回答レベル : 補足要求
一理ありますね。
回答ありがとうございます。
3.
2009-02-25 02:50:11
4.
2009-02-27 17:50:03
私が習った印象では、桶狭間に陣を張った今川軍はちょうどその時雷雨で敵も味方も簡単に動けない状態なだけに安心しきっていました。それも、織田軍がすぐそこまで迫っているとも知らずに。そこへ、織田軍が奇襲をかけ、今川軍は人数で勝っていてもその奇襲で対処できずに混乱状態になりました。そこから言えば、当然今川の戦死者が多いといえます。
自信度 : 自信あり 回答レベル : 回答
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コメント(3)
#1. usa
2009-02-25 01:07:30
『信長公記』の巻首(巻頭の部分)のP.30-35に桶狭間のことが詳しく書かれていますのでご参考までに挙げておきます。http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kouki.html
#2. usa
2009-02-25 01:29:51
『信長公記』は、織田信長の出生から最期までを克明に書いて後世に残した伝記です。著者は太田牛一であり、天文23(1554)年以前から織田家に仕え、信長の側近として間近で信長を見続けた人物です。本能寺の変の前には近江国鯰江の代官の地位にあり、変後は秀吉側室の老職を勤めながら過去に記した覚書類をもとに信長の伝記を執筆したとのこと。伝記が完成したのは慶長10年頃とされ、その後多くの写本が出回り、小瀬甫庵の『信長記』などと区別して『信長公記』と呼ばれます。http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html
#3. usa
2009-03-03 21:53:44
回答がお役にたったならと思っています。ベストありがとうございました。また何か疑問などあったらいつでもご質問下さい。では、また。




