回答
コメント(10)
真理を説いたものを仏法僧は " 法 " と呼び、特に釈迦の示した " 法 " を指す時はコレを教法 ( きょうぼう ) と言うそうです。この教法は、" 能詮 " ( のうせん ) の 『 言教 』 と " 所詮 " の 『 教理 』 という二つに分類されています。
■ 能詮とは、
いいあらわすものという意味
■ 所詮とは、
いいあらわされたものという意味
例えば、般若心経は " 能詮 " であり、空 ( くう ) は、" 所詮 " と言えるそうです。
その他の色々な経典の中の " 所詮 " としては、三法印・三学・四諦・五薀・十二処・十二縁起などたくさんあるようなのですが、すみません、この辺の部分は私には理解できません。
現在、所詮が 「 つまるところ 」 とか 「 結局 」 などと同義に使われるようになった経緯が、今回の回答のポイントになるんだと思うのですが、それをどうつなげれば良いのかが難しくて回答欄に書けないんですよね。(-_-;)
>>#1 AQさん
他人様のホームページからの引用ですが
一遍上人語録 - 巻上より
南無阿弥陀仏と一度正直に帰命(きみょう)せし一念の後は、我も我にあらず。故に、心も阿弥陀仏の御心、身の振舞も阿弥陀仏の御振舞、ことばも阿弥陀仏の御言なれば、生きたる命も阿弥陀仏の御命なり。しかれば昔の十悪・五悪ながら請け取りて、今の一念,十念に滅したまふ有難き慈悲の本願に帰しぬれば、いよいよ三界・六道の果報も故なくおぼえて、善悪ふたつながらものうくして、唯仏智よりはからひてあてられたる南無阿弥陀仏ばかり"所詮"たるべしとおもひさだめて、名号を唱へ息たえ命終る。これを臨終正念往生極楽といふなり。
この辺りから「最終的には」の意味になっていったのでは
ないでしょうか。
>>#2
ん~(-_-;) ますますわかりません。
aldi さんの引用。私、読むだけで必死でした。(>_<)
所詮 > いいあらわされたもの > 周知の事実 > ・・・
この後なんですよね。といいながら見当違いだったりして。^^;
一旦回答にしたのですが、やはり回答に値しないと判断し、コメントとして投稿し直しました
所詮の語源ということで言えば、上記のコメントですでに言い尽くされている気がするのですが……門外漢が自分なりの解釈で書きます
だからあんまり信用しないでください
仏教の経典はほとんどが弟子の質問に師匠である釈迦が答える形で書かれていますが、この回答の多くが例え話等を交えたものになっています
ではこの経文が言い表していることは何なのだろうか、という研究が後世に行われるようになりました
後世の学僧による教えの解釈(?うまく言えません)がAQさんの言っている空とか三学、四諦…などなどで、これのことを所詮といっていたようです
経文(能詮)で書かれていることを簡潔な言葉でまとめたもの(?自信なし)が所詮で、一般人から見れば長い経文が簡潔な言葉になったので、今日のような「所詮」の使われ方になったのではないでしょうか?
こんなに、おちゃらけてなく、文字数の多いコメント欄も珍しいですね。(・・;)
>>#4
本当は、あれあれ~ これこれ~ なんだけど ・・・ という前置きを割愛してひとつの言葉でまとめたのが、" 所詮 " ということなのかな? そういう意味かな?
たしかにバリバリの理系な私が何をしているのだろう?
>>#5
ですね。そういう意味だと思いますよ
http://dic.livedoor.com/search_dj_ng?k=dic&key...
http://dic.livedoor.com/search?dic=dj&id=10580...
回答欄ではなく、コメントで盛り上がるのが最近の傾向なんですかね・・・
>>#1
回答としては、仏教・仏法の教えが語源で、現代用語の所詮と同義のものだって事ですかね?
納豆と豆腐ぐらいの違いがありそうですが・・・
>>#7
回答に自身が無ければ、回答欄には書き込まないようにと思っています。過去にも STRANGER さんへの回答で、結果が出ていない回答をして失礼した記憶があるものですから ・・・。
>納豆と豆腐ぐらいの違いがありそうですが・・・
ということは、由来は同じと言う事ですね。
あとは、" 所詮 " ができるまでの工程ということですね・・・。
ん~(-_-;)
>>#8 AQさん
>>#2 で「死ぬ前に"南無阿弥陀仏"と念仏を唱える
(言い表す)ことで、結果として往生が約束される」
という所から、
本来、"言い表す"の意味だった"所詮"を
後の人々が、往生=人の最期ということで
「念仏を口に出さなけれ結局人生が完結しない」の
"結局"に気をとられて文脈で考えてしまって
意味が移動してしまったのではないかと思います。
憶測ですみません。



